カート・コバーンとか 「自死」について。

いきなり今日はずいぶんと重たい内容です。

 

カート・コバーンで引っかかって来られた方。
NIRVANAの話やカート・コバーン自身の話はほとんど出てきません。
すみません。

 

ただ、タイトルがいきなり自死についてじゃあ重いから。。。っていう理由と、個人的になんとなく印象的な最期を迎えた方だったので引用させていただいたまでです。

 

でもせっかくだからNIRVANA。

 

いきなり自死というテーマに触れるのも勇気がいるので。。。

NIRVANAについて。

ご存じない方はこちら

 

この曲なら知らない人でも一回ぐらいは聴いたことがあると思います。

英語何言ってっかわかんねー、でもかっくいー

ぐらいの気持ちで聞いて育った人も多いんじゃないでせうか。

 

。。。ぼくもそうでしたけど

 

多感な時期にこういう音楽に触れて、そして彼の死を知るっていうことは思いの外強烈なインパクトを人生に残します。

 

壮絶な、カート・コバーンの一生。

なぜかミュージシャンって壮絶な人生の人多いですよね。

彼に限らず。

不遇な子供時代とドラッグとメチャクチャな人間関係。。。

 

まぁそれがロックだぜ、っていう人もいるかも知れませんけど。

一般的と言われる、世の中の多くの人のもつ価値観からはとんでもなくずれてますよね。

 

カート・コバーン自身もそんな波乱な一生を激しい自己表現とともに走り抜けた人です。

突っ走った挙げ句に自ら鉄砲くわえて命をたってしまう。。。という結末は誰も真似できるものでもないし、受け入れがたいものではありますが。

でもだれもそんな生き方を非難することはできないよなぁ。。。とも思います。

結局、この人の最後の気持ちなんてこの人にしかわかりません。

たとえドラッグが誘発した結果だったとしても、そこに至るまでの気持ちはやっぱ本人しか知りえないことです。

 

だからそれに対しては否定も肯定もできないな。。。と思っています。

 

 

唯一できるのは、ただあるがままそれを現実として受け止める、ということでしょうか。

 

誰でも人は死ぬ。

 

人の死、というのはあまりに重いテーマなのでタブー視されがちですが

人間生きている以上一度は死にます。

それが病気であれ事故であれ、はたまた自然死であれ自死であれ。

誰もが通る道。

 

だからこそ、逆にもっと自死について真剣に色んな角度から考えてみることも必要なんじゃないか。。。。と思ったのでこんな記事を書いてる次第です。

 

「自死」は権利なのか罪なのか。

「自死」

いわゆる自ら命を立つことについては今日までいろんな議論がかわされています。

たとえば「安楽死」についての議論から一般的な自殺まで。

 

日本ではあまり実感ないかもしれませんが、キリスト教などの宗教的な感覚が人々の感覚にしみついている国などでは自死は罪(法的な物というよりも宗教的な意味において)であると考えられてることが多いです。

聖書的には自ら命を断てば地獄行きです。。。(それもひでぇ話ですが)

もちろん、それ以外にも残された人が悲しむなど、感情的な問題などから自死は「良くないもの」とされるのが一般的だと思います。

 

余談ですが

日本独特だなぁ。。。といつも思うのは「責任を取る」といって自死を選ばれる方がかつては多かった。。。ということです。

これは切腹とかそういう過去の風習に端を発するのかもしれません。

ただ、これに対してぼく的にはむしろ自分が死んじまったら責任取れねーんじゃねーのか?
。。。と思ったりもします。

まぁ、己の命を差し出すほどことを重大に捉えていますよ、っていう意味なのかもしれませんけどね。

責任を取るならむしろ生きて社会奉仕活動でもしたほうが意味があるんじゃないのかなぁ。。。と個人的には思います。

 

でもそれも本人のその時の気持ちにならないとわからないことですから、ジャッジはできないですね。

 

 

 

一方で

いわゆる安楽死など、自ら命を終わらせることを一つの「命の選択」とする考え方もあります。

 

人の尊厳とか、医療の役割とか。。。話が無限に広がるので今はこのテーマには触れないでおきますが。

これもとても難しい話で。。。一夜にして結論が出るものでもないですし、安易にここでその正否を論ずることもできない規模の話です。

 

やはり、人と死の問題は人生の不可避なテーマであるが故に簡単に答えは出ないのだと思います。

 

ただ、そういった議論はあらゆる人生の可能性を探る。。。という意味では有意義なことなんじゃないかと思います。

自死という選択を一方的に否定する、あるいは肯定する。。。というわけではなく、それ自体にきちんと目を向けて、様々な角度から冷静な議論を交わすという点において。

 

また

安楽死の問題も含め、自死の問題を議論する際に結局は「残る側の人」からみてどうなのか。。。っていうことは活発に語れても「去る側の人」の意見はなかなか語りえない、という問題もあるかと思います。

カート・コバーンではないですけど、実際にその立場になってみないと結局はわからないことですからね。

 

 

だからあえて今日こんなこと書いてる。。。てのもあるんだと思います。

 

 

。。。もうカート・コバーンもNIRVANAも関係ありませんが(笑)

 

自ら命を終わらせるという状況。

ここからはちょっとリアルで重い話なので、苦手な方は次の段落まですっとばすか、ここでページを閉じましょう。

 

ただ

こんだけ自死の話を偉そうに語ってるには理由があって。

 

 

ジャッジや議論する前に

 

「じゃあ自ら死を選ぶときの気持ちってなんなのか。。。。」

 

 

っていうことに一度フォーカスしてみる、ということを再度考えてみたかったからです。

 

 

 

まぁ正直に言うと、自分がかつてそういう選択を何度か選んだ事があるので書いてるわけです。

 

これは文字だけであーだこーだ言ってる話じゃなくて

自分のリアルな経験をもとに再度この「自死」ということについて考え直してみよう。。。という話なわけです。

 

 

細かくはかけませんが。

 

服薬で一回。

縊頸で一回。

 

いずれも死にかけたくせに、何故か生き返って今こうしてブログを書いています。。。

 

 

断っておきますが、こんな経験は決して自慢できることじゃないです。

自慢する気もありません。

そして無論、誰にも勧める気もありません。

 

 

 

ただ。。。唯一その時の気持ちだけはわかるつもりではいます。

 

 

 

悩み、考え抜いた挙げ句に最後にのこった選択が「死」しかないように思えた。。。

 

という状況は、生きている以上どんな人にも起こり得ることかもしれません。

 

たとえば問題が自分のキャパを超え、あまりにも大きく重くとうてい手に負えない。。。もう詰んだ。。。と感じたときなど。

強制終了してしまうしかない。。。と思う可能性もなくはないわけです。

 

 

生きるよりも死ぬほうが希望に見える時が人生に訪れないとは決して言い切れません。

。。。誰にでも。

 

だから

自分には関係ない!とか

そんなの、だらしないだけだ。。。とか思わずに、自分自身の問題として考えてみるというのも人生では大切なことかな。。。と思うわけです。

繰り返して言いますけど、決して自死を肯定するわけでも否定するわけでも、はたまた勧めているわけでもなければ自慢しているわけでもありません。

 

そう言うところを経験したからこそ、真面目に考えてみたいな。。。ということです。

 

結局、自死ってなんなのか。

自ら命を終えるという選択に対して、一方的にジャッジすることはできないな。。。というのが今の正直な気持ちです。

 

悩んだ挙げ句に導き出された選択ならば仕方ないのかな。。。といった諦めのような気持ちも正直あります。

 

 

センシティブな話をしているのを承知で書いていますが

 

物事って木みたいなもので

こちら側から見るのとあちら側から見るのでは見え方が全然違ったりするわけです。

 

自ら命の活動を終わりにする、という問題もこれと同じで。

肯定否定両方の意見があっていいのではないか。。。と今は思っています。

 

極論で一方的かもですが、死ぬ方の気持ちなんてその立場になってみなきゃわかんない訳です。

いくら周りが何を言ったって、一番しんどいのは死を選んだ本人です。

それしかもう扉がない。。。という状況にまで追い込まれてるわけですからね。

精神的なものにしても、肉体的なものや経済的なものにしても。

そういう状況、他人がやすやすと想像して同調できるなら自殺がこの世から無くなってるか、あるいは自殺があたりまえかのどちらかな世界になってるかだと思います。

 

それぐらい、わかっているようで人の気持ちはわからない。。。ということです。

 

 

 

実は親しい友人を自死で亡くしたこともあります。

 

そのときは、一体どんな思いでそこに至ったのだろう。。。とあれこれ思い巡らせてみましたが、残念ながら到底自分にはわかりませんでした。

なんとなくわかるな。。。ああ、そうだよね。。。

ぐらいには思えても、本人のその時の気持ちなんてどうやったって他人にはわからないものなんだなぁ。。。という無力感とともに泣きました。

 

結局。。。と言ってしまっては身もふたもないですが。

はたから見たらどうでもいいようなことだとしても、本人にとっては自らの存在の是非を問うまでの問題であったりもするわけです。

 

その、スイッチを押すか押さないかのギリギリのはざまを散々悩んで苦しんで自分でもがいて出た結論が、自ら終りを迎える。。。というのなら、一体周りはそれに対して常識や感情論、まして宗教規範などを持ち出してジャッジするというのは妥当なのか。。。。

自死の正否を問う前に一体自分にはどれだけその「自死を選ばざるを得なかった人」の気持ちに寄り添えるのか。。。

 

 

自分で何度か死のうとしといて言うのもなんですが。

 

とても考えてしまいます。

 

 

 

こうやって書くと、まるで自死を肯定しているかのように思われるかもしれませんが、そんな事は決してありません

 

繰り返しになりますが、ぼくはその正否に対しては今はなんとも言い切れないな。。。というのが正直なところです。

否定も肯定もできません。

 

 

いや、むしろ正しいか否か。。。という種類の議論ではないかもしれません。

だからこの問題についてはジャッジするのではなく、残る側の気持ちとともに、去る側もどうしてそう選択せざるを得なかったのか。。。を改めて考えてみるという作業をしてみたかったわけです。

 

 

 

人の死。。。というのはあまりに重くて辛いものなので、普段あまりフォーカスされることがないテーマでもあります。(一部、宗教的なものや慣習などから死にたいする抵抗があまりない世界もあります。。。。少数ではありますが)

 

それが「自死」ともなればなおのこと。

 

決して安易な気持ちで語れるテーマではありませんが。

人が死ぬ。。。ということは絶対避けては通れないことです。

 

だからこそ、一度ぐらい真剣に向き合うことも必要なテーマんじゃないかな。。。。と。

 

 

結局結論は出せないままですが。。。

 

カート・コバーンの気持ちもわかんなくないかなぁ。。。というところです。

 

アドラーではこんがらかってしまったぼくが、ちょっとヒントを貰った一冊。

 

アドラーも、何度か読んだらそれなりに人生を切り開くヒントにはなりうるかも。

 

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